男と女と前世と母乳(試し読み)

 俺は前世では母だった。
 当時、俺は疎開先で三人の娘たちと暮らしていた。他に家族はいなかった。旦那は戦争に行って以来、一年以上音沙汰がなかった。俺の両親も旦那の両親も、気づいたときにはみんなすでに亡くなっていた。
 ある日、一歳に満たない末娘に母乳を与えていると、帰宅したばかりの長女が「戦争に行く」とのたまった。
 俺はぎょっとして末娘を取り落としそうになった。動揺しすぎたがゆえに授乳を続けながら、長女の顔をのぞきこんだ。
 長女は金髪に生まれそこねた明るい色合いの茶髪を、生真面目におさげに結っていた。赤らんだ頬とそばかすが、なんとも田舎くさい。親の目から見ても、国中どこにでもいそうな十八歳だった。
 どんくさくはないが、機敏でもない。体格は悪くはないが、よくもない。勉強もずば抜けてできるわけではないが、馬鹿ではない。少なくともぶっ飛んだ発言はしないような娘だった。はずだった。
「なにを言ってるんだい」
 俺は末娘を抱きしめながら、きつい口調で長女に問いかけた。
 長女はまじろがずに、まなじりの垂れた目で俺を見返してくる。
「銃を持って、前線に行くの。このままでは、お父さんも、お母さんも、みんな死んでしまうわ」
 長女の声音は静かだが、ひどく重々しい。
「もう、兵隊さんの許可は取ったの。週が明けたら、汽車に乗って、前線を目指すわ。もちろん、いきなり戦場に投げこまれたりはしない。女でも、死なせないために、勝つために、ちゃんと訓練してくれるって話よ」
「えっと……衛生兵ではなくて?」
「銃をかついで戦うわ」
 生真面目にかっ飛ばしてくる娘に、俺は卒倒しそうになった。末娘が乳首を吸う刺激でなんとか理性を失わずに済んだが、「考える時間をちょうだい」と返すだけで精一杯だった。
 あのとき、どうして即座に全力で反対できなかったのか。俺はいまだに後悔している。
 現世で前世の出来事について後悔したところで、もうどうしようもないのだが。今の俺は、母親だったころとは性別も、生まれた時代も、国も、名前も、なにもかもが違う人間だ。
 結局、俺は長女の参戦を止められなかった。
 なすすべもなく娘を見送ったあと、寒さと飢えから結核だか肺炎だか忘れたが病に倒れ、娘たちを遺して春がくる前に死んだ。そして、気がついたら平成の日本の一般家庭に生まれ、ごく普通の、それこそ前世の長女と同じくらい平凡な男子高校生として、平和に暮らしている。と思っている。

 しかし実際のところ、俺の現世はそこまで平和ではなかった。
「村崎!」
 元気いっぱいどころか凶暴ささえ感じさせる女の声で呼ばれたと思った瞬間、俺の背中になにかが飛びついてきた。
 昔、小説で「背中にふたつの膨らみがあたって云々」という描写を読んだことがある。だが、実際、背後から女に抱きつかれても、胸が当たっている実感が得られるわけではない。胸が豊かな女は、腹もやわらかい。だから、うしろからひっつかれると、熱の塊みたいな脂肪が俺の背中にもふりと密着してくる。時と相手と好感度によるのだろうが、つまり、女にくっつかれると暑苦しい。
 俺は女に取り憑かれたまま、なにごともなかったかのように足を踏み出し、校門から出ようとした。前世の記憶にひたっていてすっかり忘れていたが、今は下校中だ。他のクラスの宿敵に襲撃される可能性が、もっとも高いタイミングだった。
「おまえの財布の中身を全部わたしによこせ!」
 女……露木という名の同級生は、俺の首筋につかまったまま、正々堂々と恐喝をしてきた。
 中学時代さんざん金をせびられて人生が嫌になったから、わざわざ治安のいい進学校に入ったのに。まさか、この期に及んでたかられるとは思わなかった。
 もっとも、強請ってくる人間は、今も中学時代も、露木ただひとりだが。どうやら、露木は俺といっしょの高校に入って恐喝を続けるために、猛勉強したとの噂だった。
 俺は露木を無視して歩き続ける。中二くらいまでは相手のほうがでかくて強かったから、いつも金をとられていた。
 だが、今の俺は中学のころとは違う。中三から高二にかけて、約二十センチ身長が伸びた。気づいたときには、小学生のころからクラスで一番でかかった露木の背を、難なく越していた。
 だから、もう、露木は怖くない。力だって、俺のほうが強……くはないかもしれないが、きっと、簡単に負けはしない。
「むーらーさーきー!」
 露木は露木で、俺に引きずられながらも自分のペースをつらぬいている。
「『式部』って呼ばれたくなかったら金出しな! つーか今ここでジャンプしてみろよ! ポケットに小銭入れているんだろ? 歩いているだけでもジャラジャラいってるんだけど……ってもしかして家の鍵? あれ、まじで鍵?」
 ちなみに、今は九月の初旬だ。今年の残暑は一段と厳しい。露木に引っつかれて、さらにズボンのポケットに手を突っ込まれたりして、ただでさえ壮絶に邪魔くさいのに、さらに死ぬほど熱い。
 先に相手が熱中症で死ぬことを祈っているけれども、実際に死なれたら胸糞悪い。なぜなら、この女は――。
「おい村崎、金よこせよぉ! アイス食べたいんだけど! このままだと熱中症で死ぬってー!」
 巻き舌でドスをきかせて金を要求してきた露木は、母親におやつ代をせびる中学生ないしは小学生みたいな台詞を続けた。なんだかんだで、中学のころから少額しか要求してこない。
 とはいえ、露木のせいで、いったい何度買い食いを我慢する羽目になっただろうか。いつかこの恨みを晴らさねばならない。
 俺はようやく立ち止まる。露木が「おっ」と期待したような声をあげて離れたのを確認してから、振り返る。
「俺、今日、五十三円しか持ってないの。昼休みにアイス二個食ったら金なくなった。だから、いつものアレでいいか?」
 呆れ声で念のため確認すると、天然茶髪のおさげ娘は、「おう!」と豪快にうなずいた。

 俺と露木は寂れた公園の公衆トイレの裏で、ふたりきりになった。
 小学生が野に放たれた放課後の時間帯でも、この公園、特に公衆トイレ付近にはだれもいない。夜になるとなにか出るらしいが、健全な高校生である俺は日中にしか来ないため、くわしいことは知らなかった。
 ざわざわと、頭上からブナの葉同士がこすれ合う音が聞こえてくる。ミンミンゼミの生き残りの声が、遠くのほうから流れてきた。けれども、人間の声はまったくしない。ときおり、食事中の露木のくちもとから、濡れた音が聞こえてくるだけだった。
 俺は古い木の切り株に腰かけていた。鞄は無造作に地面に放りだして、ワイシャツのボタンは全部開け放って、実に開放的な気分……ではなかった。地べたに両膝をついた露木が俺のTシャツをまくり上げ、一心不乱に乳首に吸いついている。
 もちろん、今の俺は男だし、母乳も出ない。けれども、露木は俺の乳を吸うのが大好きだった。俺も露木に乳を吸われると、わけがわからないくらいしあわせな気分になれた。
 別に、肉体的に気持ちいいわけではない。ただ、湯船につかっているときよりも、布団に包まれているときよりも、ずっと安心する。たぶん、露木に乳を吸われているあいだは、脳内麻薬がどばどば出ているはずだ。
 俺が不自然なまでの多幸感を味わえるのは、きっと、前世で「母」だったからだろう。そして、露木が俺の「娘」だったからだろう。
 露木は財布に入りきらないほどの小銭よりも、コンビニに並んでいるありとあらゆる菓子よりも、俺の乳のほうが好きだった。中三のころ女に校舎裏へ呼び出されたとき、煙草の代わりに乳首を吸わせてみたら、そのまま俺の乳にどハマりしてしまったのだ。ついでに、禁煙にも成功したようだ。「ヤニくさい口で俺の乳を吸うな」と冷ややかに告げたのが効いたらしい。
 乳首中毒のこの女は、俺の末娘の生まれ代わりだと思っている。優等生でも委員長でもないくせにいつもおさげだから、当初は長女が転生した姿かと思った。だが、露木は元長女にしては非凡な人間だった。身長にしろ、胸にしろ、体つきには恵まれているし、そばかすもないし、本気を出せば勉強もできる。でも馬鹿だ。
 そしてなにより、俺の乳首が好きだ。乳離れする前に母親である俺と死別してしまった、末娘であるなによりの証拠だと思う。末娘は俺の乳をもっと吸いたくて、俺と同じ時代、場所に転生した。そして、俺に甘えたくて、金をせびったり反抗したりむやみやたらにのしかかってきたりするのだろう。
 ちなみに、元末娘の現腐れ縁の露木をかわいいと思ったことはないが、鬱陶しいとは常々から感じている。
 俺は露木の背中に片腕を回し、雑になでてやった。俺が母だったころは、もっと慈しむような手つきで娘たちを撫でていたが、相手が露木だと思うとやさしくする気にはなれなかった。
 もっとも、たとえ相手が露木ではなかったとしても、丁重に扱ってやれるとは思えない。前世でも現世でも、自分の胎(はら)から生まれた子ども以外をかわいがるのは、俺にとっては大層に困難な事柄だった。
「ねえ、すごくどうでもいいことなんだけどさぁ」
 ひとしきり俺の乳を吸い尽くした露木が、汗ばんだ顔で俺を見あげた。頭髪同様に色素の薄い瞳は、木漏れ日にあかあかと透けている。
「わたしさぁ、ずっとずっと昔、下手したら生まれてくる前から、村崎のおっぱいを吸いたいと思っていたんだよな」
 露木は真面目くさった顔つきで、なんの前触れもなく告白してきた。特に気恥ずかしがるようなそぶりは見せないまま、「よっこらせ」とその場にしゃがみなおす。
 紺色のスカートの下に、ふっくりとした下腿が見える。奥を見やると、黒い重ね履きがあった。生唾を飲みこみながら、重ね履きに目を凝らす。淡い水色の布地がほんの少しはみ出ていた。
 俺はなにも言わなかったが、視線は露木のパンツと太ももに釘付けだった。